Z(仮)

戯言の掃き溜めです。

プログラム1番

 「プログラム1番、XX高等学校。課題曲Ⅳに続きまして、レハール作曲、鈴木英二編曲、喜歌劇『微笑みの国』セレクション。指揮は––」

 

 高校生活最後の、いや、人生最後のコンクールは大会開始のアナウンスとともにあっけなく終わった。人生最後だというのになんだかぱっとしないな、最後ぐらいドラマがあってもいいのに。私たちに与えられた最期の12分は、別に何が起きるわけでもなく、その辺のなんてことない日常を切り取った12分と同じように、ただただ平穏のままに過ぎていった。

 

 私が所属していた部活動は半分宗教のようなものだった。先代顧問に非常に影響を受けたであろう同学年の部長が提示し、部内の大半が納得した「A部門銀賞」という、吹奏楽関係者に見られたら首を傾げられそうな目標とともに歩んでいった。

 

 今だからこそ言えるのだが、私はコンクールというものがあんまり好きではなかったのだと思う。もちろん、プロに自身の演奏を評価いただいたり、他団体の演奏を聴くことができたりする非常にいい機会ではあると思うのだが、それ以上に、あの大会で何か大切なものを失ってしまうような気がしてやまなかった。「賞」という薄汚れた何かを掴むために音楽を奏でる。音を楽しむと書いて音楽なのに、そんな本末転倒なことをして彼女らは本当に幸せだったのだろうか。

 

 「私たち、がんばったよね。」「どうかなぁ」

 「大丈夫だよ、きっと」「いやぁ、どうだろうね」

 「発表の瞬間怖いからみんなで手繋いでようよ」「いや、銅でしょ」

 

 案の定銅賞、なぜか安堵した。県内でも下から数えた方が早い、いわば底辺のような存在。当然と言えば当然だった。逆にあれで銅じゃないならどうかしてるよ、と朝からずっと思っていた。他団体の演奏もほぼ全部真面目に聴いた。だからこそ、この結果には尚更納得する他なかった。

 

 別に涙も出なかった。泣いてる同級生もいたが、その大半が泣くに値するほど練習していなかったことを私は知っている。それなのによく泣けるな、とか思っているうちに冷めてきてしまった。文化部男子ってやっぱり性格が悪いのだろうか。それとも、音楽をやっている人間にまともな人間が少ないのだろうか。後者が正解な気がするが。

 

 帰りのバスの中、翌日の反省会。誰もが「残念」と口にしそうな、いや実際していたと思う、そんな地獄の雰囲気で一通り形式上の反省をした後、後輩たちの企画した "いかにも" な引退式を経て私は帰宅部生へと成り下がった。部長は当たり前のように泣いていたし、私も最後の挨拶で当たり前のように泣かせた。

 

 部長は中高6年間共に部活をしてきた唯一の存在だった。楽器はクラリネット。私には縁遠い楽器だった。中学時代はくだらないことで争ってばかりいたが、今となってはそれもいい思い出だ。と、都合の良いことを言わせて欲しい。体型が私に似ていることが玉に瑕なのだが、思想の強い先代顧問の影響を大いに受けていたことも、人に首を傾げられそうな目標を堂々と大衆の前で語っていたことも、行事の度に馬鹿の一つ覚えのように泣いていたことも、全てが彼女らしく、私には到底真似できることではなかったため、ある意味どこかで尊敬していた点もあった。私の吹奏楽人生は、そんな部長がいたからこそ成立していた、といっても過言ではないだろう。いや、流石に過言が過ぎていたかもしれない。

 

 結局私はというと、最後のコンクールを向かえるにあたって、どんな結末が来ようとも不満も後悔も抱かなかったのだろうが、これで私の人生が終わってしまうという事実になんとも言い難い寂寥の念を抱いていた。しかし、これで終わっても満足だ、と思わせてくれるほどの光景をあの日私は目にした。これまで私が音楽をやってきた全てが、ずっと追い求めていた何かが、そこには存在していたような気がした。

 

 あの日、演奏を終えた後、楽器をステージ外に一通り出した私は、同パートの後輩たちとともに写真撮影へと向かった。いや、正確にいうと、後輩たちをまとめて先に撮影会場に行かせ、私は少し片付けのための準備をした後に会場へ1人で向かった。その道中、いろんなことを考えた。

 

「これで長かった呪縛からも解放か」

「こんなにいつも通りなのにそれも今日で終わりなのか」

「またこれからも今日までの日々が続いていきそうなのにな」

 

 柄にもなく、何かが込み上げてきそうだった。これまで当たり前だったものが、今日でいきなり終わりだとなるという事実はやはり悲しかった、辛かった。子供みたいにわがままを言えるのなら、まだ楽器を叩いていたい。後輩たちを一生可愛がっていたい。あの空間であの人たちと演奏していたい、どれだけ下手くそでもいいから。

 

 思ったよりも撮影会場は近かった。だが、そこへの道程はまるで私の吹奏楽人生そのもののようだった。たった数分の、12分よりもはるかに短い道のりであったが、そこに私の人生が詰まっていたようだった。できることなら、ゴールしなくなかった。

 

 管楽器のメンバーは、ステージからそのままの足で撮影会場へと向かう。彼女らがその道中で一体何を考えていたのか、何を話していたのか、それはわからない。思えばいつも私は別行動だった。本番前にステージの袖で出会うまで、彼女らが何をしているのかもまるで検討がつかない。毎年円陣を組んでいる、と言うような伝統があったとしても、私はそれに毎年参加していないし、そもそもそんな伝統があることさえ知らない。まあ、きっと何もしていないのだろうが。

 

 会場に到着するや否や、驚いた。顧問が泣いていたのだ。

 

 学校の先生は強い、学校の先生は勇敢、学校の先生は泣かない。私の中で、勝手にそんなレッテルを貼っていたことに気付かされた。彼らは教師である前にひとりの人間だ、私と同じように。

 

 彼は私が高2のときに新規採用枠で赴任してきた。山口県山口市出身、広島大学教育学部卒業、二年間中学校での臨時採用を経て本採用。高等学校の英語科教諭となった。高校で初めて吹奏楽に出会い、大学の吹奏楽団にも所属していた。担当楽器はパーカッション、奇しくも私と同じだった。

 

 私が初めて見た彼は、24歳、いかにも大卒三年目というような風貌だった。生徒と教師、という関係ではあるが、その歳の差は8つ。私にとって彼は先生、彼にとって私は生徒。言ってしまえばただそれだけの関係なのだが、当時から私はどこか彼にそれ以上の何かを望んでいたような気がする。なにしろ、それほど歳の離れていない同性の、同じ楽器パートの大人という存在が自分の目の前に現れたことが素直に嬉しかった。

 

 よく、休日の部活後に彼とメシを食いに行っていた。もちろん、私からの誘いで。もちろん、彼の奢りで。正確に言うと、私が払う素振りを見せるといつも彼はそそくさと会計を済ませてしまう。これが大人の経済力だ、と言わんばかりに。他にも、休日どこかで演奏会があれば連れて行ってくれたり、自分のポケットマネーで大量に打楽器を購入したり、購入した数多の楽器を一式部室に残したまま異動していったり、と今思えば山口県高等学校教諭の給与額でよくそんなことができていたな、と感心させられることばかりだった。おそらく実家が太いか、投資で成功でもしていたのだろう。それか、自分の所持金の大半をそのようなことに使ってしまう根っからの吹奏楽バカだったのだろう。

 

 私が吹奏楽を終えたあの日は、彼にとっては始まりの日だった。赴任二年目にして、彼は吹奏楽部の正顧問となった。当然、指導経験はない。イチから、いやゼロからのスタートだった。

 

 1年、2年、3年、正顧問は毎年変わった。初めの顧問は産休で交代、その次の顧問は自信が臨時採用であるという立場上の、将来を見据えた勇退だった。その結果、夏に指揮台に立つ者の姿は小柄な女性から小太りの男性へ、そして大卒三年目の青年へと変化していった。この部活にとって顧問が変わるということはあまり望ましいことではないのかもしれない。だが、私は毎年どこか新鮮な気持ちになれていたので、実をいうとこの宿命が嫌ではなかった。最後の年に、私は音楽の真髄に出会えたのだから。

 

 「いやー凄いと思うけどなぁ」「よくここまで来れたと思うけどなぁ」

 

 今でも覚えている。コンクール前日、部室で最後の通しを終えた後、彼はそう言った。それは、私たちにかけた言葉であり、きっと彼自身にかけた言葉でもあったのだろう。他所者からしたら、お世辞にも上手いとは言えない演奏だったと思う。その言葉も結局は "自己満" の3文字で片付けられてしまうものだったと思う。でも、それでいいと思えた。この演奏がどう評価されるかは分からないけど、評価されるに値する演奏だったら、ありのままの状態を評価してもらえるなら、それでもう十分だと思えた。

 

 全てが終わった後、写真撮影の会場で彼はDVD販売業者が構えたカメラに向かってメッセージを残していた。その言葉から、彼の涙は決して悔しさから流れたものではないことは容易に分かった。達成感というか、多幸感というか、そんなことをも感じさせるものだった。そのような彼の姿を目撃した私は、言葉では言い表せないような思いで胸がいっぱいになった。初めて、音楽をやっていて良かったと思えた瞬間だった。間違いなく、あの瞬間が私の吹奏楽人生の中での頂点だった。彼の涙に、私がこれまで吹奏楽を、音楽を追い求めた理由の全てが詰まっていたような気がした。

 

 

 結局、私は吹奏楽人生をあの瞬間で終えることが出来なかった。福岡県の大学に進学し、全国大会にもかつて出演したことのある地元の吹奏楽団でこれまでと同じように楽器を叩いている。高校を卒業してもう五年も経つというのに、未だに私は吹奏楽の呪縛に囚われている。顧問だった彼とは、年に数回ほど酒を飲む仲になった。今は吹奏楽部のない高校で、管弦楽部の副顧問をしているらしい。私が知らない間に彼は結婚していた。同じ高校の、同じ部活のクラリネットの同級生と。五年と言う歳月は、沢山のことを変えてしまう。

 

 私はと言うと、この五年間何もなかった。環境が変われば何かが変わるだろう、と淡い期待を持ち日々を惰性のまま過ごしてきた。しかし、そこで見たものは自分と吹奏楽を取り巻く環境の変化だった。当時互いに好意を寄せていた女性はその近くにいたバイク乗りの男性に連れ去られてしまうし、同じパート内で不満を持っている連中らは内乱のようなことを起こすし、好意的に接してくれていた同じ楽団の20も年上の男性からは恋愛感情をむき出しにされた挙句、一方的な嫉妬心により拒絶されてしまうし、良かったことなんて数えるくらいしかなかった。そして、やはりあの日を超える何かには未だに出会えていない。というか、今後も出会うことなんてないのだろう。

 

 福岡五年目、最後だと思って臨んだコンクール。奇しくも出演順が1番だった。あの日と同じ、プログラム1番。

 

 ゴールド金賞。人生で2回目の、たった2回の、数少ない金賞。有難い金賞。でもダメ金。嬉しくも、悲しくも、悔しくもなかった。何かどころか、もう何も感じなくなってしまった。

 

 やはりあの日私が見た景色が、音楽の正体だったのだろう。少なくとも、私はそう信じている。いや、確信している。

 

 「お疲れ様でした。この夏ひと夏四ヶ月。長かったけど、本当に私の拙い指揮についてきてくれてありがとうございました。三年生の力でここまでいい演奏ができるようになったと思います。これがこの学校の伝統になればいいと思います。今日は本当に一番いい演奏ができてよかったな、と思います。ありがとうございました。」

 

 また彼と飲みに行くとしよう。もちろん、彼の奢りで。

聴覚

 高3の夏、母方の祖母が死んだ。ちょうど、部活を引退した次の日か、その次の日の出来事だった。夏休みのくせに「課外授業」という名の受験対策を行なっている自称進学校の中でも「理数科」と呼ばれる自称頭のいい人たちが集うクラスの一角で、私も同様の対策講座を受講していた。

 

 確かその日は英語のリスニングをしていた。受験生のためにあえて回りくどい会話をしている男女の会話などを聞いて、ちょっと考えないと正解がわからないような設問に回答する。それを25回ぐらい繰り返す、もはや作業だった。

 

 リスニングは耳から入ってくる情報が全てだ。私はCDプレイヤーから英語の音声が聞こえてくるうちは目を瞑るか逸らすかして、絶対に問題文に目を通さないようにしていた。視覚でも英語の情報が入ってくると頭が混乱するし、何しろ視覚からの情報は任意の時間に手に入れることができる。リスニングの本質は、その一瞬でしか手に入れることができない聴覚からの情報をどれだけ処理できるか、ということにある。と、当時弱冠17歳の少年Oは彼なりの見解を述べていた。

 

 正直、リスニングは割と得意な方だった。50点満点のテストで、よほどのことがなければ40点を下回ることがなかった。これは私の隠れた特技だった。実際、センター試験当日もリスニングの全国平均点が22.67点だったのに対し、私は42点を記録した。偏差値もリスニングだけは70を超えた。それほど私は耳から即時に情報を手に入れ、また次の問題が始まるまでにその情報を忘れ去る、という能力に長けていたと思う。昔から音に溢れた生活を送っていたため、知らず知らずのうちに耳が冴えたのだろうか。

 

 その日もいつもと同じように、課外を終え、昼休みを迎えた。そして、いつもと同じように校則に反して校内で隠れてスマホを操作しようと、律儀に電源を切っていたiPhoneの電源ボタンを長押しした。その僅か数分後の出来事だった。

 

 父親からのLINEの通知に気づいた。どうやら1時間前には来ていたらしい。当たり前だが、そのメッセージは送られてから1時間の間、私の目にも耳にも飛び込んでは来なかった。

 

 「おばあちゃんが亡くなった」

 

 たった一言、それだけだった。父らしかった。

 

 祖母の死は別に突然訪れたわけではなかった。高1の夏休みが終わってから数日後に開催された体育祭、その翌日だった。目が覚めたらいつもと様子が違ったことは寝ぼけていながらでも容易に理解できた。祖母が救急車で病院に運ばれたらしい。

 

 祖母は普段は母親の実家に、祖母と祖父と、3歳の時に自閉症と診断された叔父(母の弟)と三人で暮らしている。叔父は高校時代に「切り絵」という類の芸術に出会い、祖母と2人で切り絵とアトリエを開いていた。毎週木金土日曜日は、私の実家に隣接しているアトリエをオープンするから、その一角でみんな暮らしていた。

 

 体育祭は土曜日だったから、うちに全員がいた。当時の私を含めた大半の者が、すぐによくなるだろう、ぐらいにしか思っていなかった。母親だけは、なんだかすごく慌てていたように思う。まさかあれっきり祖母が病院から出ることもなく、約2年病院のベッドの上に臥し続けてそのまま逝ってしまうとは、当時の私は考えてもいなかった。

 

 私が初めて病院で祖母を見た時、そこに居たのは私の知っている祖母ではなかった。入院してまだ数日しか経っていないはずなのに、まるで別人だった。当たり前のように会話はできなくなっているし、呼びかけても目は空いているが首を振ったり手を動かしたりなんかはできなくなっている様子だった。

 

 「ばあちゃんきこえてますかー?わたしでーす」

 

 病人相手にもこんなふざけた呼びかけしかできないのか、と自分が恥ずかしくなりながらも、その姿を見て私はもう元気な祖母を見ることはできないんだ、と悟った。体育祭の日の弁当に入っていた卵焼き、あれは祖母が焼いたものだったそうだ。それが私が食べた祖母の最後の料理だった。

 

 祖母が死んだ日、私は学校でスマホの通知を見てから急いで帰宅した。その日も茹だるような暑さが続いていた。汗だくで帰宅し、リビングに入ると、そこに父がいた。父は私を認めると、おばあちゃんのところへ行こう、とだけ言った。私は着替えた後、父の車でそこへ向かった。

 

 私が到着した時には、既に親族が何人かいた。私が見たことある人もいれば、そうでない人も、合わせて10人ぐらいだろうか。実際は全員会ったことがあるのかもしれないが、私の記憶のフォルダに入っている人が数人しかいないだけなのかもしれない。そんなことを考えながら、私は目的の場所へ向かった。

 

 布団の上に一枚の白い布。その上に、着物を召した老婆が、私がよく知らない人が眠っていた。本当にこれが祖母なのか、私が生まれてから15年、関わってきた人間だったのかわからなかった。今の生活に嫌気がさして、入院のタイミングでちょっとだけ似た別人と入れ替わって、実は今は私の知らないところで第二、第三の人生を送っているのかもしれない。そう思わせるほど、彼女は私の知っている彼女ではなかった。

 

 「ばあちゃんきこえてますかー?わたしでーす」

 

 あの日と同じように声をかけた。私は何も変わっていない。当然だが返答はなかった。しかしその時、なぜかあの日は感じなかった清々しさを感じた。嫌な清々しさだ。

 

 「それでは今からお婆さまを棺の中に入れますので男性の皆さんご協力をお願いいたします。」 

 

 これまでいくつもの "数日前まで生きていた人" たちを担当したのかまるで検討もつかない、その手のプロの声が聞こえた。彼の声は非常に落ち着いていて、まるで死人などこの空間にいなかったのか、というような錯覚を私に覚えさせるほどだった。彼は冷静に、これからやることを順序立てて説明した。

 

 私も、"男性の皆さん" の一員としてその作業に参加した。祖母が眠っている長方形の布の四隅と、長辺の中点の合計6箇所を持ち上げて、布ごと棺に入れる。それだけの作業だった。たった十数秒の作業の間で、私はいろんなことに気付かされた。

 

 信じられないくらい祖母の体重が軽くなっていたこと、信じられないくらい祖母の身長が縮んでいたこと、信じられないくらい祖母が冷たくなっていたこと。そして、そこにいるのが祖母以外の何者でもなかったこと。

 

 通夜、告別式で母親は号泣していた。初めて見た母の涙だった。いや、もしかしたら過去に自身の不孝で泣かせたことがあるかもしれない、しかし、都合がいいだけなのかそんなことは記憶にない。とにかく、記憶している中で、最初で最後の光景だった。

 

 そんな中で私はというと、驚くほど冷静だった。ベタなフィクションの小説や映画ですぐに号泣するくせに、涙は出なかったどころか、泣きそうになる瞬間すらなかった。身内の死に直面した時って意外と冷静なんだな、とここ数日の出来事を通じて痛感した。自分の両親が死んだ時も、同じように私は平静を保っているのだろうか。何もなくても涙を出せるように練習でもしといたほうがいいのだろうか。なんか嫌なやつだな、と自分で思った。

 

 私は葬式が嫌いだ。といっても、葬式が好きだなんて人はいないだろうが。「死」という事実を縁もゆかりもないプロによって淡々と、機械的に片付けられていくあの時間をどうしても受け付けることができない。悲しさよりも気持ち悪さの方が勝ってしまう。だから泣けもしないのだろうか。逆に、赤の他人の葬式に出席したら、きっと涙するだろう。小説や映画で号泣してしまう人間なのだから。

 

 その後祖母は焼かれ、骨になった。焼かれた祖母の姿はなんとも惨めで、それを見ても「これが合法的な死体の処理方法なのか」ぐらいにしか思えなかった。私が死んだときは祖母よりも勢いよく燃えるのだろう。脆い骨だけになった姿を見てそのギャップに笑われそうだ。祖母との思い出なんぞは全く浮かばず、こんな皮肉なことしか浮かばない私はやはり何処かおかしいのだろうか。

 

 身内の死を通して、私はなにかを得たのだろうか。自分という人間がいかに卑屈な人間か、ということは再確認できた。同時に、自分は最低な人間だということも認識した。入院がスタートして約一年経ったあの日、祖母の容態が悪化したあの日の夕方、母親から病院に来いと連絡があった。だが、その瞬間も私は急ごうとしなかった。きっとまだ大丈夫、と決めつけて、自分の都合を、当時好きだった人との予定を優先させた。あの日顔を見せたその時、祖母はどう思ったのだろうか。私の到着が遅くなったことを残念に思っただろうか、あるいは私が病室に来たことを嬉しく思っただろうか、はたまた、私の顔も声もなんの情報も彼女の元には届いてはいなかったのだろうか。

 

 真相は誰にもわからない。祖母がこの世を去ったのは、その日から1年が経った頃のことだった。祖母が喋れなくなって、私の知っていた祖母が私の知らない祖母になってから約2年、一体どんなことを思いながら、考えながら生きていたのだろうか。英語のリスニングは得意だったが、喋れなくなった祖母からは何のメッセージも読み取ることはできなかった。やっぱり、耳以外は全然ダメなんだろう。祖母との思い出も、最後にかけた言葉も、あの日の卵焼きの味も、もうほとんど覚えていなかった。