Z(仮)

戯言の掃き溜めです。

聴覚

 高3の夏、母方の祖母が死んだ。ちょうど、部活を引退した次の日か、その次の日の出来事だった。夏休みのくせに「課外授業」という名の受験対策を行なっている自称進学校の中でも「理数科」と呼ばれる自称頭のいい人たちが集うクラスの一角で、私も同様の対策講座を受講していた。

 

 確かその日は英語のリスニングをしていた。受験生のためにあえて回りくどい会話をしている男女の会話などを聞いて、ちょっと考えないと正解がわからないような設問に回答する。それを25回ぐらい繰り返す、もはや作業だった。

 

 リスニングは耳から入ってくる情報が全てだ。私はCDプレイヤーから英語の音声が聞こえてくるうちは目を瞑るか逸らすかして、絶対に問題文に目を通さないようにしていた。視覚でも英語の情報が入ってくると頭が混乱するし、何しろ視覚からの情報は任意の時間に手に入れることができる。リスニングの本質は、その一瞬でしか手に入れることができない聴覚からの情報をどれだけ処理できるか、ということにある。と、当時弱冠17歳の少年Oは彼なりの見解を述べていた。

 

 正直、リスニングは割と得意な方だった。50点満点のテストで、よほどのことがなければ40点を下回ることがなかった。これは私の隠れた特技だった。実際、センター試験当日もリスニングの全国平均点が22.67点だったのに対し、私は42点を記録した。偏差値もリスニングだけは70を超えた。それほど私は耳から即時に情報を手に入れ、また次の問題が始まるまでにその情報を忘れ去る、という能力に長けていたと思う。昔から音に溢れた生活を送っていたため、知らず知らずのうちに耳が冴えたのだろうか。

 

 その日もいつもと同じように、課外を終え、昼休みを迎えた。そして、いつもと同じように校則に反して校内で隠れてスマホを操作しようと、律儀に電源を切っていたiPhoneの電源ボタンを長押しした。その僅か数分後の出来事だった。

 

 父親からのLINEの通知に気づいた。どうやら1時間前には来ていたらしい。当たり前だが、そのメッセージは送られてから1時間の間、私の目にも耳にも飛び込んでは来なかった。

 

 「おばあちゃんが亡くなった」

 

 たった一言、それだけだった。父らしかった。

 

 祖母の死は別に突然訪れたわけではなかった。高1の夏休みが終わってから数日後に開催された体育祭、その翌日だった。目が覚めたらいつもと様子が違ったことは寝ぼけていながらでも容易に理解できた。祖母が救急車で病院に運ばれたらしい。

 

 祖母は普段は母親の実家に、祖母と祖父と、3歳の時に自閉症と診断された叔父(母の弟)と三人で暮らしている。叔父は高校時代に「切り絵」という類の芸術に出会い、祖母と2人で切り絵とアトリエを開いていた。毎週木金土日曜日は、私の実家に隣接しているアトリエをオープンするから、その一角でみんな暮らしていた。

 

 体育祭は土曜日だったから、うちに全員がいた。当時の私を含めた大半の者が、すぐによくなるだろう、ぐらいにしか思っていなかった。母親だけは、なんだかすごく慌てていたように思う。まさかあれっきり祖母が病院から出ることもなく、約2年病院のベッドの上に臥し続けてそのまま逝ってしまうとは、当時の私は考えてもいなかった。

 

 私が初めて病院で祖母を見た時、そこに居たのは私の知っている祖母ではなかった。入院してまだ数日しか経っていないはずなのに、まるで別人だった。当たり前のように会話はできなくなっているし、呼びかけても目は空いているが首を振ったり手を動かしたりなんかはできなくなっている様子だった。

 

 「ばあちゃんきこえてますかー?わたしでーす」

 

 病人相手にもこんなふざけた呼びかけしかできないのか、と自分が恥ずかしくなりながらも、その姿を見て私はもう元気な祖母を見ることはできないんだ、と悟った。体育祭の日の弁当に入っていた卵焼き、あれは祖母が焼いたものだったそうだ。それが私が食べた祖母の最後の料理だった。

 

 祖母が死んだ日、私は学校でスマホの通知を見てから急いで帰宅した。その日も茹だるような暑さが続いていた。汗だくで帰宅し、リビングに入ると、そこに父がいた。父は私を認めると、おばあちゃんのところへ行こう、とだけ言った。私は着替えた後、父の車でそこへ向かった。

 

 私が到着した時には、既に親族が何人かいた。私が見たことある人もいれば、そうでない人も、合わせて10人ぐらいだろうか。実際は全員会ったことがあるのかもしれないが、私の記憶のフォルダに入っている人が数人しかいないだけなのかもしれない。そんなことを考えながら、私は目的の場所へ向かった。

 

 布団の上に一枚の白い布。その上に、着物を召した老婆が、私がよく知らない人が眠っていた。本当にこれが祖母なのか、私が生まれてから15年、関わってきた人間だったのかわからなかった。今の生活に嫌気がさして、入院のタイミングでちょっとだけ似た別人と入れ替わって、実は今は私の知らないところで第二、第三の人生を送っているのかもしれない。そう思わせるほど、彼女は私の知っている彼女ではなかった。

 

 「ばあちゃんきこえてますかー?わたしでーす」

 

 あの日と同じように声をかけた。私は何も変わっていない。当然だが返答はなかった。しかしその時、なぜかあの日は感じなかった清々しさを感じた。嫌な清々しさだ。

 

 「それでは今からお婆さまを棺の中に入れますので男性の皆さんご協力をお願いいたします。」 

 

 これまでいくつもの "数日前まで生きていた人" たちを担当したのかまるで検討もつかない、その手のプロの声が聞こえた。彼の声は非常に落ち着いていて、まるで死人などこの空間にいなかったのか、というような錯覚を私に覚えさせるほどだった。彼は冷静に、これからやることを順序立てて説明した。

 

 私も、"男性の皆さん" の一員としてその作業に参加した。祖母が眠っている長方形の布の四隅と、長辺の中点の合計6箇所を持ち上げて、布ごと棺に入れる。それだけの作業だった。たった十数秒の作業の間で、私はいろんなことに気付かされた。

 

 信じられないくらい祖母の体重が軽くなっていたこと、信じられないくらい祖母の身長が縮んでいたこと、信じられないくらい祖母が冷たくなっていたこと。そして、そこにいるのが祖母以外の何者でもなかったこと。

 

 通夜、告別式で母親は号泣していた。初めて見た母の涙だった。いや、もしかしたら過去に自身の不孝で泣かせたことがあるかもしれない、しかし、都合がいいだけなのかそんなことは記憶にない。とにかく、記憶している中で、最初で最後の光景だった。

 

 そんな中で私はというと、驚くほど冷静だった。ベタなフィクションの小説や映画ですぐに号泣するくせに、涙は出なかったどころか、泣きそうになる瞬間すらなかった。身内の死に直面した時って意外と冷静なんだな、とここ数日の出来事を通じて痛感した。自分の両親が死んだ時も、同じように私は平静を保っているのだろうか。何もなくても涙を出せるように練習でもしといたほうがいいのだろうか。なんか嫌なやつだな、と自分で思った。

 

 私は葬式が嫌いだ。といっても、葬式が好きだなんて人はいないだろうが。「死」という事実を縁もゆかりもないプロによって淡々と、機械的に片付けられていくあの時間をどうしても受け付けることができない。悲しさよりも気持ち悪さの方が勝ってしまう。だから泣けもしないのだろうか。逆に、赤の他人の葬式に出席したら、きっと涙するだろう。小説や映画で号泣してしまう人間なのだから。

 

 その後祖母は焼かれ、骨になった。焼かれた祖母の姿はなんとも惨めで、それを見ても「これが合法的な死体の処理方法なのか」ぐらいにしか思えなかった。私が死んだときは祖母よりも勢いよく燃えるのだろう。脆い骨だけになった姿を見てそのギャップに笑われそうだ。祖母との思い出なんぞは全く浮かばず、こんな皮肉なことしか浮かばない私はやはり何処かおかしいのだろうか。

 

 身内の死を通して、私はなにかを得たのだろうか。自分という人間がいかに卑屈な人間か、ということは再確認できた。同時に、自分は最低な人間だということも認識した。入院がスタートして約一年経ったあの日、祖母の容態が悪化したあの日の夕方、母親から病院に来いと連絡があった。だが、その瞬間も私は急ごうとしなかった。きっとまだ大丈夫、と決めつけて、自分の都合を、当時好きだった人との予定を優先させた。あの日顔を見せたその時、祖母はどう思ったのだろうか。私の到着が遅くなったことを残念に思っただろうか、あるいは私が病室に来たことを嬉しく思っただろうか、はたまた、私の顔も声もなんの情報も彼女の元には届いてはいなかったのだろうか。

 

 真相は誰にもわからない。祖母がこの世を去ったのは、その日から1年が経った頃のことだった。祖母が喋れなくなって、私の知っていた祖母が私の知らない祖母になってから約2年、一体どんなことを思いながら、考えながら生きていたのだろうか。英語のリスニングは得意だったが、喋れなくなった祖母からは何のメッセージも読み取ることはできなかった。やっぱり、耳以外は全然ダメなんだろう。祖母との思い出も、最後にかけた言葉も、あの日の卵焼きの味も、もうほとんど覚えていなかった。